『乙女理論とその周辺 -Ecole de Paris-』

喜劇、大蔵遊星の夢。

第一章、第一幕。

『総集編』


拝啓、私のご主人様。

私が屋敷を離れてから一ヵ月が経ちました。ルナ様におかれましては、お身体は健やかなまま毎日お過ごしでしょうか。

この夏の暑さは格別と聞いています。私の体はいまオーストラリアのシドニーにあるだめ、日本の日射しがどのようなものかはわかりません。その肌に万が一のことなど怒らないよう、あの世からただ祈っています。

そう、あの世です。

私は一度死にました。たった一度の、しかし致命的なミスで桜屋敷を追い出されて以来、小倉朝日として人前に立ったことはありません。

いま私は大蔵遊星として、兄のもとで三度の食事をつくるまいにちです。

驚いたことに、才能のない私を必要としなかったあの兄が、料理をしている今の間は、この身を側においてくれているのです。

自らの望む道からかけ離れているとはいえ、一度捨てられた相手に突きはなされないというの嬉しいもので、今はそれなりに穏やかな日々を暮らしいています。

ただ兄からは、こごとのように『笑え』と言われます。

何故でしょう。桜屋敷での思い出を頭に浮かべると、笑顔でいなかった日を思い出すのが難しいほどなのに、最近では、自分が今どのような表情をしているのかもわからないのです。

あの兄から見離されないだけでも喜ぶべきだというのに。私の心はいつからこれほど贅沢になってしまったのでしょか。

この事実に気付くと、反省すること頻りです。

ですが今この時においても、あのお屋敷に与えられた自分の部屋を思い出すだけで、自然と笑みが浮かんでくるのです。

お屋敷の部屋の中では小さな部類に入る、それでも居心地の良かったあの空間をいつも思い出してしまうのです。

この時ばかりは、自らの顔をはっきり意識することができるのです。

皆様と過ごした眩い時間を忘れるのに、たった一月しか期間がないのでは、それ自体が無理難題というものでしょう。

ああ、あの華やかな桜屋敷での日々!

両親より授かった名前を捨ててさえ、いっそこのまま従者でいられたらと思う瞬間が多々ありました。

才能溢れる輝かしい主人に傅き、そのご友人の皆様と共に過ごした毎日は、絢爛という言葉でも足りないほど美しい暮らしでありました。

その記憶がなくなるまで、いえ、せめてあの日々の映像がほんやりとするまでは、毎日の生活を笑って過ごすことができそうもありません。

私のしたことは許されることではありません。親愛なるあなたを騙し、生き甲斐を与えてくれた礼を述べることすらできずに尊い役目を放棄したのです。

だからいまこうして私が笑えないのは、あなたと真摯に向きあわなかった故なのでしょう。

ですが私は、愚かにもまだ縋りたいのです。皆様の優しさに甘えたい。今の穏やかな生活を捨ててでも、自分の夢に憧れたい。

やはり私贅沢になってしまったのでしょう。掛け替えのない日々を望むことは、若き日を羨む老人の境地に等しいとわかってはいても、心がそれを許してくれません。

もう一度、夢を追いたい。

あの日に戻れないのなら、もう一度、生まれ変わりたい。

ですが私は大蔵遊星として生きています。それはきっと、これからも続くことでしょう。

これは私からあなたへの手紙であると同時に、ほんの少し、きっとあと少しの間だけ、夢の残滓を舐めながら過ごすことになる老人の備忘録なのです。

この出せない手紙を引き出しへ隠し、兄の目に触れる前に燃やし、それを繰りかえし、繰りかえすことがなくなるまでの、ほんの少しの未練なのです。

この未練がなくなれば、あなたと会う前の自分がそうだったように、無為な日々を送る姿へ戻ることができるでしょう。妹の側で暮らしていた頃のように。

そういえば、この私に献身的でいてくれたあの健気な妹は、いまどうしているでしょうか。

彼女には、多大な恩があるにも関わらず迷惑を残してしまいました。

あの妹にだけは、何らかの形で、この身で為しうる最大限の礼を尽くしたいと思います。それが済めば思い残すこともなく、自分の意志で兄の側にいる努力をいたします。

ですからそれまでは、昔を懐かしむためのシンボルとして、こうしてあなたを思い出すことだけはおゆるしください。

きっとあなたは私を叱りつつ、それでも最後には私の弱さ、女々しさを許してくれるのだと思います。

ありがろうございます、お優しいルナ様。そして親愛なる桜屋敷のお客様方、同僚の皆々様。この心は今も青山にあります。

どうかその笑顔と温もりは私の知る日のままで。

小倉朝日より、愛をこめて、敬具。


一个小透明